イラン国内には青を基調とした美しいモスクが多い=イラン中部イスファハンで2012年,鵜塚健撮影 イラン革命防衛隊の司令官が米軍に殺害され,イラン側もミサイル攻撃で報復しました,その後,米イラン対立の激化はいったん収まったかのように見えますが,緊張関係は続いています,日本の多くの人には縁遠い中東の国イランですが,国際社会では動向が常に注目される大国の一つです,なぜ米国と仲が悪いのか? 一体どんな国なのか? 4年間(2009~13年)のイラン滞在経験をふまえ,FAQ(よくある質問)形式で徹底的にやさしく解説してみたいと思います,3回シリーズです,【鵜塚健/統合デジタル取材センター(元テヘラン支局)】 ――イランと米国はずっと対立しているようですが,なぜそこまで仲が悪いのでしょう, ◆実は約40年前の1979年のイスラム革命まで,イランは「中東一の親米国」だったのです, 革命前のイランは,現在の「イスラム共和制」とは違い,パーレビ国王が統治する王制でした,当時のイランは米国と蜜月関係で,米国に輸出した石油の収入で,米国から戦闘機などの武器を大量に購入していました,今のサウジアラビアと米国の関係に似ています,欧米文化も取り入れ,当時を知る住民に尋ねると,ミニスカートの女性が町中を歩き,目抜き通りにはお酒が飲めるバーも多くあったといいます, しかし,潤ったのは国王周辺や都市部住民ばかりで,地方や貧困層は取り残され,貧富の差の拡大が問題になります,欧米の文化を退廃した文化と感じ,それらが入り込むことをよく思わない国民も多くいました, そんな不満の蓄積から民衆によるイスラム革命(79年2月)が起きました,その革命で国外に逃亡した元国王を米国が受け入れたことから,イランの若者らが激怒
ブランド時計コピー 同年11月,テヘランの米大使館占拠人質事件が起きたのです,52人の米外交官らが444日間も人質として拘束され,米政権・国民にとって悪夢のような事件になり,米映画「アルゴ」(12年)の題材にもなりました,事件以降,米イランは国交を断絶し,今に至っています, ――革命以降,関係回復のチャンスはなかったのですか, ◆その後も関係が悪化する事態が続きます,80年,フセイン大統領が治める隣国イラクがイランに侵攻し,イラン・イラク戦争(~88年)が勃発します
スーパーコピーn級 イラン側は通常の軍に加え,革命後に創設された軍事組織である革命防衛隊が前線で戦い,今回米軍に殺害されたソレイマニ司令官も参加しています,米国はこの戦争でイラク側に肩入れします,戦いは熾烈(しれつ)を極め,終盤ではイラクが化学兵器を使用し,多数のイラン人が死亡しました,化学兵器使用は国際条約で禁止されており,イランは国際社会にイラクの「不正義」を訴えましたが,イラク側に米国がついていたこともあり,大きな問題とならず制裁措置などは取られませんでした, さらに戦争末期の88年7月には,イランの民間航空機がホルムズ海峡上空で,警戒中の米巡洋艦にミサイルで撃墜され,乗員・乗客290人が死亡する事件も起きます,米国は「戦闘機と見間違えた」との理由で当初は謝罪せず,この巡洋艦の艦長は後に国から勲章をもらっています,この撃墜事件はイラン側に打撃を与え,停戦を受け入れるきっかけにもなりました,イラン側から見ると,米国によるこうした数々の「不正義」の積み重ねが今も許せず,「反米」の旗を降ろせないのです, ――オバマ大統領のころ,米国とイランは和解したのではなかったのですか, ◆01年9月の同時多発テロ以降,米国はイラクと並んでイランへの敵視を強め,ブッシュ(子)大統領は02年1月,イラン・イラク・北朝鮮の3カ国を「悪の枢軸」と呼びました, さらに大きな問題が核問題です,02年8月にイランで秘密の核開発疑惑が浮上,国際社会はイランに核開発をやめるよう求めましたが,イラン側は「原発など平和目的のための核開発だ」と主張し,聞き入れませんでした,国連や米国は経済制裁を強化しますが
ブランドコピー靴 イランは態度を変えません, しかし,09年に就任したオバマ大統領は
新作ブランドコピー イラン暦の正月にイラン国民に対してビデオメッセージを送るなど友好的な姿勢を見せます
ブランドコピー 安全なサイト 米大統領としては異例です,こうした姿勢に応えてイラン側も歩み寄り,15年7月に米英仏独中露の6カ国とイランが核合意(JCPOA)を結びます,イラン側が核開発を一定程度制限することを条件に,欧米側が経済制裁を緩和するという…